名字の数え方

名字の数はどうやって数えるのでしょうか。どんなものでも、数える時にはなにかの決まりがあるものです。たとえば、交通量の調査なら、自動車はどうする、自転車は、歩行者は・・・と細かく決まっていると思います。日本にある学校の数を数える場合なら、まず学校とは何か、ということを定義します。そうしないと、予備校はどうするとか、専修学校や各種学校はどうするとか、中高一環の学校は1つか2つか、とか人によって意見がわれてしまいます。

名字の場合も同じで、あらかじめ決めておかないと、人によって数え方が違ってくるのです。
別に、正式の数え方が決まっているわけではありません。合理的な数え方であれば、どういう方式を採用してもかまいません。しかし、名字関係の本をみても、肝心の名字の定義については全くかかれていないのが現状です。ですから、それぞれが勝手に独自の解釈で名字を収集しています。古代人の姓もOKの人、力士のしこ名は名字にする人、図書館の著者目録に載っていればいい、という人などさまざまです。数え方が違うので、数えた結果が違うのも当然です。

一応、私は次のような規則で名字を調べています。
a)平安末期以降に実在した---名字が今のような形になったのは、ほぼ平安末期と考えていいと思います。従って、それ以降に実在したものだけを対象としています。それ以前も対象とすると、「県犬養橘」(あがたいぬかいのたちばな)とか、今の感覚では名字といいがたいものも含まれてしまいます。
b)本名に限る---江戸時代以前は自由に姓名を変えることができましたから、本名かどうか、という判断は難しいことがあります。それでも、戯作者・鹿都部真顔の「鹿都部」のように明らかに本名でない場合は対象としません。明治以降は戸籍制度があって、本名とそれ以外は厳然と区別できます。従って、本名以外は対象としていません。従って、筆名・芸名・力士のシコ名などは名字とは考えていません。
c)新旧字体は同じとする---現在、漢字には新字体と旧字体があります。これらを厳密に区別する方と、区別しない方があります。「滝沢でも瀧澤でもいい」という方もいれば、「自分は瀧澤であって、滝沢ではない」と断言する方もいます。新旧字体の差は、その名字の発祥などには関係ないため、私は新旧字体は同じとみなしています。
d)読みは原則として区別---同じ表記の漢字でも読み方が違えば別の名字としています。ただし、清濁の差や、音便の差は、やはり名字の発祥などには関係ないため、同じと考えています。
つまり、「河野(こうの)」と「河野(かわの)」は別の名字ですが、「山崎(やまさき)」と「山崎(やまざき)」や、「佐々(ささ)」と「佐々(さっさ)」は同じ名字ということになります。

こういった規則で数えていても、判断に困ることはたくさんあります。例えば、消滅したことがはっきりしている名字があります。江戸時代以前、公家に「正親町三条(おおぎまちさんじょう)」家という家がありました。こんな長い名字は他にはないでしょう。しかし、この家は明治になって「嵯峨」家と改称したため、現在「正親町三条」という名字はありません。これを数えるかどうかは微妙です。
また、著名氏族の系図をみていると、現在は存在しないとても変わった名字が記入されているものがあります。おそらく、その人がその名字を名乗ったことは間違いないのでしょうが、子孫が続いたかどうかはわかりません。ひょっとすると、歴史上その人だけが一時的に名乗っただけかもしれないのです。
現代でも、一部に電算化されたいない紙の戸籍があり、そこには明治時代の官吏が書き間違えたと思われる「誤字」による名字が存在します。近年各地で電算化が進んでいますが、その際に精査すると実にたくさんの「ありえない漢字」が出てくるそうです。担当者がその戸籍の本人に確認すると、ほとんどの人は普段は「正しい漢字」を使用しており、中には戸籍上の変な漢字のことを知らない人もいるそうです。こういった摩訶不思議な名字は、もう数えようもありません。


日本人の名字