古代豪族の田中氏


一見、あまり由緒がなさそうな田中氏ですが、実はは古代からありました。
その代表が、大和国高市郡田中(奈良県橿原市田中町)を本拠とする田中氏です。

『古事記』孝元天皇の段に「蘇賀石河宿禰者。<蘇我臣。川辺臣。田中臣。高向臣。小治田臣。桜井臣。岸田臣等祖也>」とあり、天武天皇13年(684)の八色の姓の制定に際してに朝臣姓を賜っています。
弘仁5年(814)に編纂された 『新撰姓氏録』の右京皇別上には「田中朝臣。武内宿禰五世孫稲目宿禰之後也」とあり、蘇我氏の一族とみられます。

『日本書記』の第二二の推古天皇31年の条には、推古天皇が新羅を討とうとした際に、田中臣(名前は不明)が「然らず。百済は是反覆多き国なり。・・・」と反論したとみえ、これがおそらく史書に登場する最古の田中氏とみられます。
持統天皇元年(687)には田中朝臣法麻呂が天武天皇の喪を告げるために新羅に派遣され、法麻呂はのち伊予総領、伊予国司をつとめています。

さらに、天平宝字8年(764)に陸奥守・鎮守将軍となった田中朝臣多太麻呂、『懐風藻』に詩1首が掲載されている田中朝臣浄足なども出ましたが、奈良時代末期以降、古代豪族の田中氏は没落しました。

なお、『日本霊異記』の下巻第二十六話には、「田中真人広虫女者、讃岐国美貴郡大領、外従六位上小屋県主宮手之妻也」として、真人姓の田中氏の名がみえます。