a)定義を勘違いする---収集を大勢にたのむと、中には「名字は何か」という基本的なことを勘違いすることがあります。筆名や芸名を名字として収集してしまうのです。新しい名字の採集方法として、図書館の著者名一覧などを使うことが多いようですが、本を書いている人がすべて本名とは限りません。小説以外でも筆名を使って本を書く人はたくさんいるのです。 また、力士のシコ名や小説の登場人物を採集してしまうこともあります。最近の人名事典には、架空の人物も収録されているものがありますから、人名事典に載っているから実在とも限らないのです。 b)姓名間の区切りを間違える---中には姓名間の区切りを間違えることもあります。たとえば、ある本には「安里積」(あさとつみ)という名字が収録されています。これは、「安里 積千代」(あさと・つみちよ)という沖縄の政治家の姓名間の区切りを間違えたものだと思います。 他にも「近新」(こんしん)という姓は「近 新三郎」(こん・しんざぶろう)という、戦前の東京市助役のことではないでしょうか。「清崟」(せいきん)もおそらく「清 崟太郎」(せい・きんたろう,政治家)でしょう。まだまだたくさんありそうです。 中には大胆にフルネームを姓としているものもあったりします。その代表が、ある本に記載されている「皇至道」(すめらぎ)という姓です。「皇至道」氏は有名な学者で、「皇」(すめらぎ)が姓で「至道」(しどう)が名前です。「皇至道」を姓と考えてしまう大胆さには驚きます。他にも「西周」(にしあまね)という姓を収録している本もあったりします。(西周を知らない人に名字の本をつくらせるな!と思いません?) もっと大胆な例として、姓名を勘違いしたのでは、というものもあります。ある本には「競」に「わたなべ」という読みを振って収録しています。これは、平安時代の「渡辺競」(わたなべ・きおう)という人物の姓名を間違えたのだと思っています。(どうやったら間違えるんだ?) c)誤植を信じる---どんな本には誤植はつきものです。ですから辞書は初版を買わない方がいい、という人さえいます。厳重な校正をしている辞書でさえそうですから、一般の名簿などにはミスはたくさんあります。たとえば、高校の卒業生名簿をくまなく見てください。どこかにミスがみつかるものです。こういった誤植を単純に信じると幽霊名字が誕生します。 たとえば、ある名字の本には「石渡」という姓に「いわした」というヨミがふられて収録されています。これはあきらかに誤植だと思うのですが、どうでしょう? あと、通常ルビには字の大小の区別がありません。「八田」という姓に「はった」とルビを振っても、「っ」の字は小さくできず、「はつた」と見えてしまいます。これを見て、「八田=はつた」として、別の名字として収集してしまうことがあります。 d)論外---こういった勘違いの他にも、もともと信憑性のないものから収録することもあります。 一昔前までは、「子子子子」で「ねこじし」とか、「谷谷谷谷」で「たにかべやつや」といかいう、どうみてもインチキの名字がよく紹介されました。もともとはなにかの本に冗談として載っていたものを誰かが信じたのが始まりだと思います。 最近では、ホームページに書かれていた、ということを唯一の証拠にして収録することもあるようです。ご存じのようにホームページに書かれていることがすべて本当なわけはありません。 ある本には、「訂」で始まる名字が多数載っており、すべて「くぎ~」という読みがついています。この姓を本当に見た、という人は寡聞にしてしりません。この本の編集者は疑いを持たなかったのでしょうか? 名字の採集をする方は、データソースくらいはしっかりして欲しいものです。 |